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2008年11月 9日

佐志能神社 (笠間市)

茨城県の 佐志能神社(笠間市) を掲載しました。

茨城県笠間市にある。
笠間駅の北東3Kmほどにある佐白山の頂上に鎮座。
佐白山には笠間城跡があり、県立自然公園になっている。

佐白山の西麓から山頂までは道路が延びており
山頂直下まで車で登ることができる。

笠間城跡の奥に、当社への参道がある。
もとは天守台があった場所のようで、
参道階段脇には、天守台の石垣が残されている。
階段を登りきった場所に、社殿がある。
山頂付近には巨石があり、拝殿前の手水舎も自然石を穿ったもの。
拝殿の後方に本殿があり、本殿周囲の土塀は、
天守の瓦を利用したものらしい。


創祀年代は不詳。
佐白三所大明神、三白権現とも称された神社で、
式内社・佐志能神社の論社の一つ。

当初は佐白山(佐志能山)山頂に鎮座していたが
建長年間、藤原時朝による笠間城築城により
祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷し祀っていたが
明治五年、笠間城廃城に伴い、旧社地に戻された。

  
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投稿者 GenSyouShi : 2008年11月 9日 11:11

こめんと

 こんばんは。

 トップページのスライドショーが速くなりましたね。個人的にはこのテンポの方が良いです。いつまでも見飽きません。

 神社の画像というのはこれまでも書籍やネットなどにいろいろと載せられてきましたが、もっと探求と工夫の余地があるんじゃないか、という気がします。ここのサイトの画像群(とくに境内を全景で捉えたそれに惹かれるのですが)を拝見していると、そういう思いを強くします。

投稿者 kokoro : 2008年11月 9日 21:04

> トップページのスライドショーが速くなりましたね。

自分用にはもっと速いバージョンを使っています。
ぼーっと眺めています。


> 神社の画像というのはこれまでも・・・

どういう目的で撮影するか、じゃないでしょうか。
僕は、祝詞を奏上する替わりに撮影しているので。
参拝した神に対する「寿ぎ」ですね。

投稿者 玄松子 : 2008年11月10日 00:14

 こんにちは

> 僕は、祝詞を奏上する替わりに撮影しているので。
> 参拝した神に対する「寿ぎ」ですね。

 これは興味深い発言です。

 これまで神社についての書物で(各地の神社誌でも『式内社調査報告』でも何でも)、テキストに画像が添えられる場合、そう何枚も載せられることはなかったと思います。たいていは1社につき1~2枚ですよね。そしてそういう場合、普通は社頭の鳥居が立っているところか、社殿の画像が選ばれるようです。例えば玄松子の記憶の場合も各神社ページの冒頭にある画像はそうなっていることが多いです。ただしそうした画像にそれほど工夫の余地があるとは思えません(とはいってもやはり撮影者のセンスの差は出ると感じますが)。

 ところがこれに対しこのサイトでは、各神社ページに載せられる画像の数がもっと多い訳です。だいたい10枚弱でしょうか。その中には磐座のような祭祀遺跡や境内社の画像もあって、これらはある程度、説明的であれば足りるでしょうから、やはりそんなに工夫の余地があるとは思えません。ただ、参道とか境内を捉える画像があった場合、そこには玄松子さん特有の「作家性」のようなものが感じられていつも注目しています。

 おもうに参道とか境内の画像というのはたんに綺麗で上手に撮れれば良い、というものではないのではないでしょうか。例えば、神社の空間というのは鳥居をくぐって境内に入ると、幾対もの灯籠や狛犬の間を抜けて拝殿の前に到着し、その拝殿の背後には本殿があり、さらにその背後は禁足地になっている等々、レイヤリズムを強く意識させられる構成になっています。そしてこうしたことに率直に対処するなら、カメラは参道上で使用されるべきであり、その結果はとうぜんシンメトリカルなものになるでしょう。が、それではどこの神社を写しても同じような絵になってしまいますから、あえてそうした制度的なものに逆らって参道から外れ、境内のはじっこのほうから撮影するという手もあります(ご承知のとおり、絵としてはその方が興味深いものになる訳です)。「レイヤリズム」をとるか「絵」をとるか、これは神社の画像を考える上で永遠の大問題です。

 そのほか、地面はどの程度、映っていればよいのか(神社の画像上では他の画像なら不自然に思われるほど地面が映っていても、さほど不自然に感じられないということがある訳です。このことは玄松子の記憶でよく体験されます)、対になっている工作物(石灯籠や狛犬等)は構図上でどう処理されるべきなのか、樹木にはどの程度、カメラを向けるべきなのか(杉のような針葉樹が多いとタテの線が強調されますが、これは避けるべきなのか、素直に従うべきなのか)、小さな神社でよく見かけるコンクリートにヒビの入った参道とか、保護のためのブルーシートとか、ホコリをかぶった一升ビンとか汚い脚立とか雑草とかの雑多な事物を、なんとか面白い景色として伝えることはできないのか(映画では、力量のある監督たちがそういう日常のごみごみした風景を面白く、かつ、説得的にすくい取って見せてくれることがあります)。また、各地にはその地域特有の質感をもった光がありますが、できうればこれを捉えたい。とくに神社の画像であればそうしたい。しかし、フィルムカメラと比較して、デジカメで撮った画像には光からそうした土地の霊が失われている気がします。等々、ネット上で神社の画像が氾濫するようになって久しい今、これらの問題については(答えが出るにしろ出ないにしろ)誰かが考えなければならないと思っています。

 閑話休題。
 唐突ですが、こういったふうに神社の画像について思考をめぐらしてゆくと、つまるところ神社には「神社固有の原理」があり、画像もまた綺麗に撮れればそれでよいというもんじゃなくて、その原理にかなっていなければならない、という感じがしてくるのです。そして、このサイトに含まれるある種の画像には、こうして私がラチもなく夢想するところの「神社固有の原理」が明瞭に浮上しているような気がしてならないのです。ただそのいっぽうで、撮影者がこれをいったいどういう発想で撮っているのかがよく分からないのですよね。今回、画像は祝詞を奏上する替わりに撮影していて、参拝した神に対する「寿ぎ」であるというのは、そういう意味であまりにも興味深いです。

 長文投稿失礼

投稿者 kokoro : 2008年11月16日 11:05

長文投稿ありがとうございます。
なかなか興味深い意見だと思います。

僕が参拝時(撮影時)に、ほとんど何も考えていなかったことを
思い知りました。

写真には、資料的価値と芸術作品という二面性があると思いますが、
僕個人は、あまり意識して区別していませんでした。
参拝時の気分を残したいとは考えていますが。

また、桜の頃、紅葉の頃に参拝すれば、どれほど美しいだろう
などと想像しながら撮影をします。
綺麗に撮れば良いというものではないのでしょうが、
綺麗に撮れている方が良いとも思います。

境内のブルーシートなどは、たまに閉口する場合もありますが、
ブルーシートがあるということは、氏子の方々が護っているという証。
最近は、掃除用具も脚立も、
その神を祭祀する方々の残滓として許容するようになりました。

立派な社殿のある神社、深い森の中の神社、小さな小祠の神社など
個々の神社には、その社特有の良さ、綺麗さ、荘厳さがあり、
氏子の方々の思いがあるわけですから、
その良さ、素晴らしさを言祝ぎ、それらを僕の「記憶」に留めたものが
『玄松子の記憶』ということ、それだけですね。

投稿者 玄松子 : 2008年11月16日 15:28

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